批評「海、リビングルーム、頭蓋骨」境界を規定せず曖昧なまま生きること

東京都現代美術館で開催中の「海、リビングルーム、頭蓋骨」展は、潘逸舟、小杉大介、マヤ・ワタナベによる映像を主なメディアとして構成されている。展覧会タイトルは各作家それぞれのモチーフを、そのままのワードで表したものだ。

私はこの展覧会を鑑賞して、社会に対して曖昧に揺らぎながら生きることを肯定も否定もせず、また、そうした生き方や絶望的な現状に限界を定めるわけでも、諦めをつけるわけでもない宙吊りな印象を抱いた。あえて表現方法を断定させず曖昧にすることで、起こった事実をありのままの形で伝えようとする姿勢を感じた。

なぜ、そうした曖昧な印象を抱いたか。展示作家3名に共通している「2つ以上の国家の間で生きている」という点に着目したい。

潘は上海で生まれ、幼少期に青森に移り住んでいる。小杉は日本人作家としてオスロを拠点に活動し、マヤ・ワタナベは日系ペルー人でありながら現在アムステルダムで活動している。

ダブルアイデンティティを持つ作家から生み出される映像表現は、何かと何かの境界や葛藤、揺らぎを描写するものが中心となっている。

例えば、藩は一貫して海をモチーフとして制作しているが、海とは形としての実態はないけれど、島国日本と、外国を結ぶ境界線として存在する。そんな海に対して、《波を掃除する人》(2018年)ではホウキで波を払い、《一本の紐》(2012年)海と綱引きをすることで、形なき海を形あるものとして捉えようともがいてるように見える。そうした光景に私は、実態なき自身のアイデンティを海を通して探究しているように感じた。

小杉大介の映像作品《異なる力点》(2019年)は、かつてボディビルの大会に出るほど健康的だった父親が、脳の障害によって徐々に身体の自由が失われていく感覚を、舞踏家に再演してもらう映像表現だ。撮影は小杉の実家で行われているが、補助器具を使いながら生活する様子はとても窮屈そうに見える。建築内における身体の不自由さと葛藤を、父と子、そして全く関係のない他者という、三者の関係性から描いている。

マヤ・ワタナベは、現在も究明が続いている自国ペルーでの内戦を取り上げている。《境界状態》(2019年)では、身元不明の犠牲者の頭蓋骨が映し出される。頭部には銃弾が打ち込まれ、身体的に亡くなっていることは分かるが、法律上は行方不明のまま=亡くなったことになっていないという、存在が宙吊りである事実を突きつける。映像を巨大なスクリーンに投影することで、未だ明かされない内戦の得体の知れなさと、それと対比されたちっぽけで無力な個人を表現しているように感じる。

美術館での展示方法については、作家ごとに空間が区切られていない。例えば小杉の作品を鑑賞しているのに、遠くから藩作品の波の音が聞こえてくるというようなことが起こる。展示の境界すら曖昧に設計することで、作品同士が干渉し合う内容になっていた。さらに、時間軸が断定されていないことも特徴と言える。小杉の《異なる力点》以外の作品は明確な起承転結が存在しない。

題材的にも、そして空間・時間的にも曖昧に設計されたこの展示が何を問いかけているのか結論を導き出すのは非常に難しい。

しかし、何か表象を確定することが近代の特徴だとしたら、パンデミックでこれまでの価値観が一変した現在において、新しい生き方を問われているように感じた。

 

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アートトの「アートライティング」の授業で書いた展示レビューです。こちらの記事もぜひご覧ください。

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