前回の記事でも紹介したんですが「あいだの思想」という本に出てきたこちらの言葉が、良きの良き丸です。
素晴らしい詩の欠点は感動しすぎること。その結果、その詩に呑み込まれてしまう。それではいけない。感動しながら、同時に覚めていなければならない。どこかで、その感動をかすかに疑ってもらえるのがいい…
文芸評論家の加藤典洋さんの言葉ですが、加藤さんは感動させないために(考える余白を与えるために)「あいだ」にあたる余計な文章をわざと入れるそうです。
これ相当すごいことやってんじゃないかと。
出してる本のタイトルも独特で
「何でも僕に訊いてくれ」
「大きな字で書くこと」
「どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。」
「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」
「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」
「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。」
敗戦後の日本や日本人の主体性について研究されてた方ですが、一体何の本なんだ…気になりが過ぎるよ。
感動の押し付け多くない?
なんだか最近、感動を押し付ける作品多い気がする。
しかも日本人にとって「泣けること=感動の最上表現」みたいな認識あってある種の気持ち悪さを抱くのですが…もちろん泣くことって大事なことだし、俺も年々涙脆くなってるし、ストレートに感動できる映画とか音楽って気持ちがいい。
でもそうした体験って割とすぐ忘れてしまいがちで、逆に「あれは一体なんだったんだ?」と何ヶ月とか何年間も、自分の中で問われるような体験が重要だったり。
しかもその時の感情は良いことだけじゃなくて、モヤモヤしたり傷ついたりもするんですが、それが本当の感動なのではと思うんです。
作り手としては感動ポルノとしてあっという間に消費されるより「どこかで、その感動をかすかに疑ってもらえるのがいい」という姿勢を持ち続けたいし、そうさせるための「あいだ」の設計も意識したい。
というか、谷川俊太郎さんは詩人でありながら詩や言葉そのものをずっと疑ってるし、坂本龍一さん(教授)も「音楽の力、おこがましい」みたいな話してましたわ。
「あれは一体なんだったんだ?」という経験
ちなみに自分も「あれは一体なんだったんだろう?」という経験はパッと思いつくだけで2つあります。
映画だと「戦場のメリークリスマス」。
初めて観たときの衝撃を今でも忘れません。
それから何回も観たし、色んな人と話したり批評も読み漁りましたが、未だに、腹の下に何か残ってるような感覚があって…
出演したビートたけしと教授がラジオで「何がなんだかよくわからなかった」「ただのホモ映画だよ」と言いながら、ご存知の通りその後は北野武として映画監督の道に、教授も映画音楽に行きました。
大島渚監督が何か刺したんでしょうね。よくわかんないけど人を変えてしまう引力のある作品良いよね。
もう1つはポエトリーリーディング。
ステージ上の3分間で、自分が生まれ変わっていくような解脱体験。フランス人の中で日本語でリーディングしているのに「伝わる」瞬間。
あれは、本当一体なんだったんでしょうね。たまに思い出しては、結局よくわかんねーってなってます。