書評「デス・ゾーン」素人がプロを演じた末路と、普通の生き方ができない人について

虚実皮膜(きょじつひまく)

江戸時代、近松門左衛が唱えた芸術理論。
芸術は事実と虚構の微妙な境界に成り立つこと。または、事実と虚構の微妙な境界にこそ、芸術の真実があるとする理論。

けっこう周りで読んでる人が多いので読んでみました「デス・ゾーン」。

無酸素エベレスト登頂を目指し、2018年に35歳の若さで命を落とした栗城さんの話。僕が大学生くらいの時に凍傷で指9本真っ黒になって切り落としたところから知ったかな。登山してる様子をインターネットで生中継してたり、そして、訃報が流れてきた時のこともやんわり覚えてます。

それ以外で栗城さんのことは詳しく知らなかったけど、この本はストレートに、そして残酷に、栗城さんの正体を暴いていきます。本文の言葉を使えば栗城さんは「おめでたい人」。

「そのおめでたい人を、なぜかみんな支えてしまうんですよ。そこが彼の最大の魅力というか、最大の恐ろしいところというか」

スポンサーから資金を集めるための「誇大広告」的活動、登山家ではなくただ山を使ってエンターテイメントしていただけの人、素人がプロのように振舞う恐ろしさ、「純粋な無謀」は人を短期的には惹きつけるが、当人には重い鎧を付けさせる。そしてメディアがそれをもてはやすことで、いよいよ降りることができなくなる。ついには、批判や炎上どころか誰からも見向きされなくなる…。

また、こういう「普通の生き方ができない人」は常に自分が何かに挑戦していないと生きられないのであり、当人にいかなる説得をして辞めさせてたとしても、いずれ心が死んで、本当に死んでしまうという…その気持ちも嫌というほど分かる。最後は「死に場所を自ら探すよう」に、あえて最難関と言われるルートでエベレスト登頂を目指したという考察や、「夢の共有」と言いながら、最終的に占い師を頼りにしていた事実は非常に興味深かったです。

この本を読めば「栗城とかバカじゃん」「偽物じゃん」と口では簡単に言えるけれど、自分も含めみな少なからず心にそういう部分飼ってるわけで。自らの自己実現欲求と他者からの承認欲求、そして周りとの人間関係やSNSとの関わり方のバランスはセンシティブな問題です。自分の実像と虚像の整合性は取れてますか。

この本は死者をさらに追いやってると批判もありますが、それ以上に僕らに訴えることがあると思います。現代の闇です。プロセス・エコノミーなどと言われてますが、一度過程を発信しはじめる(=市場に上場する)と、辞めるのが難しくなるのが資本主義の常。背負った鎧を脱ぎ下ろす「ドレスダウン」の重要性を考えていきたいですね。