俺は本当に存在するのか?

「俺=プロ無職るってぃ=山口塁」というものは本当に存在するのか?

ということをよく考えます。僕はこれまでSNSをメインフィールドに「私」を主語にガンガン発信して自己表現してやりたいことを実現して…好きなことで生きていくぜ〜的なことやってましたが、現実は分断と対立であり、インターネットと言葉の限界性・矛盾に直面し、今までやってきたことを否定されたような、自分自身というのは本当に「ある」のか疑問を抱きました。

そしてその疑問は自分だけのものではなく、今回のパンデミックによって「生きる意味とは何か?」「自分とは何なのか?」という問いは世界同時多発的に感染拡大しているように思います。

で、色々考えるんですが、やはり「私」という実体はどこにもないのではないかと考えています。結局「私」とは多様な働きの集合というほかないと。

例えば、私は日本人である。私は○○会社の社員である…私はアーティストである…

これらは私というものを定義したことになりません。日本人も○○会社もアーティストも、結局人が作った概念としての「場」でしかないので、論理的に私とは何かを定義できていません。つまり私というのは「場」にすぎず、存在しないことになってしまいます。

では、もっとも一般的で包括的な存在(場)とは何だったのでしょうか?西洋ではそれを「神」や「絶対者」と呼びますが、東洋ではそれは「無」ではないかと。

いま京都にいるのですが、ようやく哲学の道に行ってきました。日本で最初の哲学者・西田幾多郎が哲学にふけった道です。石川の人なのでもちろん知ってましたが本を読み始めたのは美術はじめてからです。西田がやったのは「無」の哲学です。

西田と言えばまず「純粋経験(pure experience)」でしょう。この概念を知ったとき「このためにアートやってるんだよ…!」と興奮しました。

例えば私が桜を見た時に、あまりの美しさに感動して息を呑んだ。このような経験は誰にでもあると思います。

ただ「私は桜を見た」というのは「経験」ではなく「認識」にすぎないと。西田の言う純粋経験とは、「私」も「対象化された桜」もない、つまり、主体と客体の区別のない、ただそこには「経験」があるのみで、「私」というものは後からその経験を振り返って出てくる。超簡単に言うと、何かに熱中してるとき「私」なんてどこか飛んでってるよねという。スポーツの世界でよく言われるゾーンとかフローが近いのではないじょうか。

そして個人あって経験があるのではなく、経験あって個人があるのだと。

僕はずっとここを履き違えていたような気がするんです。私が〇〇を経験した、その経験をSNSでアウトプットする。するとたくさん反応がくる。なんだか自分がすごいことをしてるような気分になる。そうなると自我が暴走し「もっともっと」となります。主語が「私」からである限り、この次元にロックされる気がするんです。特にSNS、なんなら西洋をベースにした資本主義は「私」という存在を助長させるようなそんな気がしてなりません。この世界は常にバイアスで成り立ってます。ものや人を直観して見て捉えることがだんだんと難しくなっています。だからこそもう一度、自由であるがままに見る目を取り戻したい。おそらく子供のころみんな持っていたと思うんです。それが自我を獲得し、社会に出て失ってしまった純粋に経験する力。

芸術や宗教からアプローチしてふ理由はここかなと感じた次第です。これは単なる西洋批判ではありません。要はバランスです。

ここから西洋では「私」を自立させました。私が花を見る、酒を飲む、道を走る…。「私」という主体が多様な「客体」に働きかけるという構図に移り変わります。その明確な出発点は17世紀の哲学者デカルトにあると西田は論じます。「我思う、ゆえに我あり」の人ですね。

私が自立したことで主客二分法が成立。客観性や批評性を獲得し、科学技術は大いに発展しました(この「私」は一切の経験を信じず、論理だけによって世界を理解しようとしました。)西洋の近代科学や近代思想の基礎がここに完成します。

そして冒頭の「場」の話に戻ります。「私」という実体は本来どこにもない。「私」とは多様な働きの集合というほかない。西田は「絶対無」という言葉を使いました。この「無」とは無限の可能性を入れた何か入れ物のようなものではなく、その都度その都度、そこに「私」を映し出す鏡のようなものだと。

だから結局、私たちが実在だと思ってるものは全て影であり、私自身も影として存在してるだけ。この場合の「無」は究極的な全てを包括する存在。ということは、それは有に対する無ではなく、有や無をも超えた無、もしくは有とも無とも言い得るような「絶対無」なのだと。

何言ってるか訳分かりませんよね。ですが僕は分からないなりにピンと来る部分がありました。プロ”無”職の実態、自分という存在のありか、私は何者でどこから来たのか?

そもそものこの東洋思想を西洋由来の「絵画」でやってるこの矛盾すら成立するのか?二次元の平面で表現できることは何か?

今日も今日とて、京都を歩きながら考えるのです。

存在論と言えばハイデガーも有名ですが西田と比較しながらそっちについても論考したいものです。