「嘘」と「方便」が経済を成立させている?

仏教で有名な話があります。

親が家に帰ると、火事で燃え煙が上がっていた。

我が子はオモチャで遊ぶことに夢中になって火事に気づいていない。

「火事だ〜!早く家から出てきなさい!」と外から必死に呼びかけるが、子供達は夢中になってるので全く聞く耳を持たない。

慌てた親は「もっと面白いオモチャを買ってきたからこっち来なさ〜い!」と呼び掛けた。

すると子供達はすぐに家から飛び出して助かった。

「ねぇねぇおもちゃはどこ?」

「うん…実はそのおもちゃはないんだ…。無事で良かった…」

さて、この場合の親が言った「オモチャを買ってきた」という言葉は嘘になるか、という話です。

ちなみにお釈迦さまの解釈では、これは嘘ではなく「方便」ということになまりす。「嘘も方便」という言葉がありますね。

僕らの生きる社会、特にいま経済のベースとなっている資本主義社会では矛盾を受け入れながら生きていくことを余儀なくされます。

例えば人や企業は、嘘ではないけれど、あらゆる「方便」を使って色んな話をしてきます。

この教材を使えば英語が上達するぞ〜とか、大企業に入れば人生安泰だぞ〜と。

そうしないと、儲からない(経済が成立しない)からです。

僕だって、この方便を使いまくってます。

ヒップホップカルチャー大好きな人たちは「リアル好きがち」なので、嘘とか表面的なものを嫌って正直に生きようとしますが、それだけじゃ回らないのが世の中です。

逆を言えば、方便が経済を回しているとも言えます。

時に方便に振り回されながら、振り回されすぎない情報収集力や感性も磨かないといけません。

どこからが嘘で、どこからが方便なのか見極めるとか。

嘘と方便の間はどこで、言葉の持つ行間をつい問いただしたくなる、というか、それが(言葉にできないことを追求する・むしろ言葉を作る/翻訳する)のがアーティストの仕事だと思うので、もう少しこれを掘り下げてみたい次第であります。