ショートカットして何者かになること。それは「自分らしく生きること」なのか、社会の仕業か

現在通っているアートトで美術批評を書く授業を受けているのですが、紹介された《The Shortcut to the Systematic Life: Superficial Life(表層的生活圏)》という映像作品が面白いです。

台湾のアーティスト崔廣宇(ツェ・グァンユー)が2002年に制作した作品で、作者は早着替えができるよう予め改良しておいた服を、元着た服の上から着る(というよりは首から被る)ことで、その場の役割に表層的に擬態する作品。

タイトルにある通り、衣服は、制度化された社会に素早く溶け込むためのショートカットの役割を果たします。

だからと言って、着替えた作者は周りの人物と積極的に関わることはありません。

無表情で淡々と(それも映像を早送りにして)着替えるという行為を繰り返していきます。そこに自分は現代人のアイデンティティの行方、もっと具体的に言うと「自分らしく生きるとは何か」ついて考えさせられます。

リアルで出会った映画や漫才を早送りで見る人

話は変わって、最近個人的に衝撃的だった話を。

「映画や漫才を早送りで見る若者が増えている」という話は以前よりネット上で耳にしてましたが、先日ついに、リアルでそのような若者と出会いました。

YouTubeやNetflixに観たい映像作品が溢れているため、とにかく早く・大量の作品に触れたい。そのため、映画の「間」がムダに感じるらしい。最近では、映画全体の内容を10分にまとめた「ファスト映画」の存在も議論を呼んでいます。

僕が会った子は「早送りだけど同じ作品を2〜3回見ますから!」と言ってましたが、タイムパフォーマンス思考に作品が回収されてしまうのはなんとも言えない気持ちがあります。

「映画大好きポンポさん」観たとき、この話を思い出しました。

映画評「映画大好きポンポさん」タイパ至上主義の先にあるもの

早送りで作品を鑑賞する若者の本質はなんなのかボヤッとしてましたが、ライター稲田豊史氏が「プロフィールに書けるような個性が欲しいから」と記しました。

「だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“自己紹介欄に書く要素が欲しい”なんですよね」(森永氏)

エントリーシートの見栄えをよくするために、ボランティア活動に参加したり、サークルの幹部をやったりするのと同じだ。

出典:「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由

何者かにならなければ生き残れない現代社会の脅迫感

2014年にYouTubeのCMで起用された「好きなことで生きていく」という言葉が個の時代を象徴するように、膨大な情報と恐ろしいスピードで変化する時代の中で、「何者かにならなければ生き残れない」というある種の強迫観念を与えてしまっているのかもしれません。

崔廣宇が作品内で行った「早回しで服を着替える」という行為は、「何者か」になりたいと生き急ぐ姿そのものではないでしょうか。

2002年の作品ながら、都市の生活のスピード感や、それに翻弄される個人のアイデンティティの行方についてクリティカルに表現してるように思えます(台湾も90年代に軍事政権の崩壊によって急速に都市が発達し、個人の生き方が揺れ動いていた時代)

表層的な衣服というメディアを早着替えすることで、ショートカット的に何者かにはなって社会や組織に所属できるが、一時的に何者かになれたとしても、一体その先に何が残るのでしょうか。

分業・細分化された都市において「自分らしく生きる」とはどういうことなのでしょうか。

そんなことを考えさせる作品です。