日常生活にこそ真理が現れる

1年ほど前にツイッターで流れてきたこちらの記事。

シェアするくらい心動かされたのは間違いないのだけど、今読むとあの頃と意味が違うように感じます。最近仕事に忙殺されて自分の時間ないなー、心乾いてるなー、という人読んでみてください。

生活をサボるな。とインド人に叱られて二年経ってから分かったこと

先日この記事を書かれたかよこさんとお話する機会があって、改めて「生活すること」について考えてみました。

何気ない日常生活の発見の多さ

別に真理を求めてないけど(香水)

10代からつい最近までキラキラした世界に憧れていました。

それは地方出身からなる、東京や世界都市への憧れのようなものかもしれません。留学先にニューヨークを選ぶくらい僕は俗です。

そうした派手で輝かしく普通の人にはできない経験をたくさんすることで「特別な人になれるのではないか」と、書くのも恥ずかしいですが、そう思ってました。

もちろんそこから得られることもありました。時に欲求に従って生きることも大切。

けど、東京から金沢に移って、さらにステイホームを余儀なくされたいま「日常生活」の中から得た発見も多いです。

座禅を習慣化しようと思って春から毎日瞑想してましたが、それも辞めました。

絵を描くこと、料理を作ること、皿を洗うこと、走ること、呼吸すること…その生活全てに瞑想性を付随させることができれば「入る(入っていた)」とわかりました。

瞑想の習慣化を辞めた理由。良い瞑想とは「すでに入っている」

後で知りましたが、仏教や禅でも「日常性」を重要視してるそうです。福沢諭吉も「飯を炊き風呂を沸かすのも学問」と言いました。

それを自分の身体も持って理解した時(超重要)、些細なことですら学びの源泉で、人の話を聞くのもおもしろく、時間が足りないほどあらゆることに興味が溢れてきます。

中島らもさんの「教養とはひとりで時間を潰せる技術のことである」という言葉の意味も理解しました。

絶対的な生活者とは”人間”として生きること?

岡本太郎の好きな言葉があって

芸術は技巧や形式ではなく、自分が自分自身になるための手段だ。芸術家の条件は”絶対的な生活者”たることであり、絵を描く行為それ自体にあるわけではない

この「絶対的な生活者」ってすごいワードですよね。

芸術家って聞くと普通の人と違う特別な人というイメージありますが、むしろ、日常生活をめちゃくちゃ大切にしてる人を指すのではと感じます。

「職業はなんですか?」と聞かれた岡本太郎が「人間です」と答えた話も有名ですね。

映画評「太陽の塔」岡本太郎は大きく勘違いされている

つまり「絶対的な生活者」とは、肩書きや社会の虚像に歪められた人ではなく、ありのまま人間らしく生きる、ということなのでしょうか。

例えば宮沢賢治も「農民芸術概論」を読めば、人間とは何か、生活するとは何かということに真剣に向き合っていたことが分かります。

「生活」ってなんとなく地味で、これまでだったら全く惹かれなかったワードが、思考の変化と、コロナという時代もあって急に引っかかるようになりました。

もちろん清貧主義を語っている訳ではありません。

「生活する」ということについて、もっと考えを深めていきたいですね。

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