西田幾多郎の「純粋経験」と「私」を独立させたデカルトについて

「NEWVIEW AWARD」に出展する作品をエンジニアの友人と制作してます。

VR業界は全く知らないことだらけなので、その匂いや雰囲気を掴むところからなのだがやっぱり知らないことを知るのは楽しい。

これまで平面作品の制作やSNSという二次元で表現していたので、三次元のVR空間で表現する意味はなんだろう、というのを考えてます。ちなみにアワードのテーマは「超体験のデザイン」です。

まず「超体験とは何か?」を考えながら、日本人が根底に持つ(持っていた)思想や宗教観、そしていま限界を迎えつつある社会を根本から見直す必要性を表現することができるのか、チャレンジしてみたいと思うのです。

従来の東洋の考え方:私が経験するのではなく「経験が私を作る」

哲学者・西田幾多郎は「純粋経験」という言葉を使いました。

※西田の書いた「善の研究」は悪名高いほど難解と言われてるので超簡単に書いていきます

著:西田 幾多郎
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例えば、私が桜を見て、あまりの美しさに感動して息を呑む。このような経験は誰にでもあるでしょう。

しかし、「私は桜を見た」というのは「経験」ではなく「認識」にすぎないと西田は言います。

純粋経験とは「私」も「対象化された桜」もない、つまり、主体と客体の区別のない、ただそこには「経験」があるのみで、「私」というものは後からその経験を振り返ることではじめて出てくる。

超簡単に言うと、何かに熱中してる時「私」なんてどこか飛んでっている状態。西洋的に言うと、「ゾーン」や「フロー」が近いと考えてます。

「私」を自立させた西洋哲学

ところが西洋思想は、ここから「私」を自立させました。

私が花を見る、酒を飲む、道を走る…など、「私」という主体が多様な「客体」に働きかける。

その明確な出発点は「我思う、ゆえに我あり」でお馴染みの17世紀の哲学者デカルトにあると西田は分析しました。

「私」が自立したことで、科学や科学技術は発展し、西洋の近代科学や近代思想の基礎が完成したという(この「私」は、一切の経験を信じず、論理だけによって世界を理解しようとした)

この理論の認識主体は、身体も国籍も持たない抽象的な「私」だから、近代科学も近代思想も国境を超えた普遍的なもの=グローバルスタンダードになっていきました。(主客二分法の成立)

西洋思想では、この「私」という主体は非常に重要なもので、「私」という個が自然をコントロールしたり、社会に働きかけて理想社会や「歴史を作る」などと言い出すと。私が自立したことで、純粋経験ではなく、ただイメージや虚像を認識する世界に突入しました。

※念のため書いておくと、デカルトは合理主義者どころか経験主義者でした。

「個の時代」と言われる現代において

自分が問題視するするのは行き過ぎた資本主義社会、合理主義、個性の確立を強要するSNS社会の危惧です。

「個人の時代」や「好きなことで生きていく」という言葉があるからこそ、「私が私が」という自己を中心に置いた我欲的発送に繋がり、他者を批判することで、自分の優位性や存在意義を見出そうとします。

便利にするために生み出されたお金や会社、さらには社会という「虚像」に、いつのまにか捉われてしまってる人もいるでしょう。最近でも、嘘の経歴を盛った問題が話題となっているが、そうしたはびこるフェイクを見抜く力、西田的に言えば「ものをものとして見る」力が必要になるのではないでしょうか。

これは単純な西洋批判ではなく、開国から150年を経て、近代化の過程で日本人が本来持っていた感覚や考えを学び直そうという態度です。

むしろ私という存在を無くすことで(無我・滅私)、相反する矛盾や二元論を超えた世界にアプローチすることができるではない。それを神秘とか、悟りとか言うのかもしれませんし、西田は「絶対無」と表現しました。

僕が肩書きとして名乗っている「プロ無職」とはなんなのでしょうか。笑

この本が難解な西田哲学のガイド本として分かりやすいです。

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