日本で英語が話せる人が増えることは良いことなのか。
これは、グローバリズムを推し進めていきたい日本にとって永遠の課題です。
来年にはオリンピックの開催を控えてるわけですし、高齢化などの明るくない未来を考えると、移民の受け入れなども考えていかなければいけません。
義務教育で英語を学んでるはずが、実用レベルで英語を話せる人は極端に少ない…
そんな課題だらけの日本の英語教育ですが、2020年から英語教育を小学3年生からに引き下げよう、とか、そんな単純な話じゃないそうです。
「KOTOBA」のこの回に掲載されているコラムが非常に興味深いものでした。
もし仮に、今以上に英語教育を推進するとして、英語を実用レベルで使用できる日本人が増えるとします。
その後に起こることは、英語が話せる階級(ここでは”エリート”と定義します)と、日本語しか話せない人との分断です。
当たり前ですが、企業はできれば「英語が話せる人材」を欲しがります。英語が話せる人の方が年収や条件は優遇されるでしょう。ほとんどの人は、「あの人は英語が話せる」だけで、その人を優秀と判断するでしょう(錯覚資産だ…)
つまり英語教育の推進と共に、英語が話せる人を優遇する仕組みが整っていきます。
しかし、言語は所詮ツールにすぎません。「英語ができること」と「仕事面において優秀かどうか」は全く別問題の話です。
語学能力は2種類に分けられる
「語学能力」というものは2種類に分けることができます。
日常におけるコミュニケーションを司る「会話言語能力」と、高度に抽象的な内容を理解したり伝達するための「学習言語能力」です。
特に後者の「学習言語能力」はビジネスや学業において必要とされる能力で、取得に時間がかかります。
それなのに、母語の「学習言語能力」が未熟な小学生の時点で、外国語の「会話言語能力」の取得に注力するのはとてもリスクが高いと、政治学者の施さんは述べてます。
バイリンガル国家として有名なシンガポールでは、小学1年生から母語の中国語と同時に、英語を学ばせる訳ですが、英語と中国語の新聞を読める”プロフィシェント・バイリンガル”は全体の13%のみだったそうです。
逆に、英語も中国語も十分な能力を獲得できない”セミリンガル”が、比率的に一番多かったとのこと。
このように「幼少期からの英語教育」には、弊害が出てることが明らかになってます。このようなセミリンガルを生み出してしまっている現実を直視せず、「幼少期から英語を学ばせるのを良し」とする風潮はどうなのか…という話です。
日本の常識や感覚、日本語すら怪しい子供が、「英語が話せる(しかも中途半端に)」というだけで「エリート」扱いされて、日本社会の中枢を担ってしまう。そんな未来がきてしまうのかもしれません。つまり、日本をグローバル国家どころか、発展途上国に衰退させてしまうかもしれないと、施さんは解説します。
※ちなみに施さんは、「母語である日本語だけでも高等教育が受けられ、経済的豊かさを享受でき、様々な人生の選択肢(職業)から選ぶことができる」というこれまでの日本の恵まれた環境をどうすれば維持できるかを、政府は懸命に探求すべき、と語ってます。
面白い考察でした。