導かれるように決まった次のステージ

昨日、こんなツイートをしました。

意味深〜〜〜

でも、気づいてると思うし、伝えようと思って。

昨日はマルチタレントいとうせいこうさんの「いとうせいこう is the poet」というイベントに行ってきました。

いわゆる「ポエトリーリーディング(詩の朗読)」をメインとしたイベントで、詩人たちが、いとうせいこう率いるバンドの奏でる音に合わせて、自作の詩を朗読してました。

「戦争賛成」と叫ぶ人、好きな人のことをTwitterに書いてたらバレたことを詩にした人、見た目アキバ系(死語)かと思いきや美しい言葉で会場を沸かした人。

ポエトリー系のライブに初めて行ったのだけれど、そこにあったのは「自由」でした。

別にルールなんてない、何にも縛られず、自由に想いの丈を音楽に乗せて言葉にしてました。言葉と音楽が一体となって会場のテンションを上げていく感じ。ほんとに、想像の100倍くらい自由で最高でした。

僕は2015年9月から言葉を発信することをはじめて、もちろん最初は「言葉を発信する」なんて綺麗なこと言ってませんでしたが。

それでも「ブログ書いて有名になってチヤホヤされたい」という想いが年月と共に、「アウトプットすることのおもしろさ」に変わり、そして今では

「言葉って面白いな」「表現することっていいな」「もっと多くの人の心に残りたいな」と思うようになりました。

この3年の発信活動を通して、僕なりの「発信すること」の定義が変わってきました。

日本人でありながら日本語の美しさ、表現の奥深さ、その難しさ(奥ゆかしさとも言う)を知らず、そして知ることで魅了され、そこから落語、俳句、短歌、そして詩に興味関心が向いていきました。

ポエトリーリーディングと、不可思議/wonderboyとの出会い

東京に上京したばかりで、会社員をしていた2015年の話。まだブログとか全然やってない時です。

元々ダンスやってたこともあってHipHopはよく聴いてました。そしてある日、Mixcloudで何気なくこちらのミックスを聴いてた時にとある曲に出会いました。

極東夜・下(Kyokuto-ya)’ 日本語ラップ/ポエトリーリーディングMIX’

基本的に韻を踏むことがベースとなるラップにおいて、韻をあえて踏まず、語りかけるかのように繰り出される音楽。それが僕とポエトリーリーディングとの、というか不可思議/wonderboyとの出会いでした。

シャカゾンビの「空を取り戻した日」の次に繰り出された曲は、最初に聴いた感想としては「なんだこの曲、気持ち悪っ」でした。

気持ち悪いというのは歌い方や曲に対してではなく、HipHopにおいて韻を踏まずに歌うことに対するしっくりこなさと言いますか。何度聴いてもむずむずしてくる、という意味での「気持ち悪さ」でした。

そのミックスの中で流れてきたのは「銀河鉄道の夜」という曲でした。隣で僕のダンス友達に聴かせた時、「俺はこれ、無理」と言ってたことを覚えてます。

僕も聴いていてしっくりこなさは凄くあったけど、それと同時に「綺麗だな」とも感じました。

そして何度も何度も「銀河鉄道の夜」を聴いてるうちに、次第にその声と詩の美しさに惹かれていきました。それから気になって、この「ポエトリーリーディング」という手法について調べてみると、

「韻を踏まなけばいけない」というルールのせいで、ある種表現の自由が失われてる。本当に自分が表現したい言葉なら、韻を踏まずに語りかける

という言葉を見つけ、「へ〜確かに。ポエトリーリーディングかぁ、面白いな」と単純に思いました。ちなみにその時はまだ、言葉を発信することを僕はしてません。

そして日本におけるポエトリーラップの第一人者であり、もはや今では伝説のようになっている不可思議/wonderboyの曲をどっぷり…という訳ではなかったですが、徐々に聴くようになりました。

ブログにも書いてます。

なんのために生きているのか分からなくなった日に絶対聞く曲

それから3年経って

会社を辞めて好きなことで生きていくためにブログを立ち上げ、発信活動をはじめました。

着実とアクセスは伸び、SNSのフォロワーも増え、自分の活動が認知されるようになりました。

世界中どこでも旅できるようになったし、クラウドファンディングでお金も集まって、果てはありがたいことにスポンサーまでついて、メディアに取り上げられるようにもなって。

すごい嬉しかったし、楽しかった。

でも、それだけなんですよね。

「あ〜自分消費されてるわ」って感じ。お金やフォロワー数という数字のために今やってることじゃ、人の心に残るってのは無理だし、死んだらもう忘れ去られていくんですよ。

自由を目指してるようで、「プロ無職」とか「るってぃ」という名前とイメージだけが広がって、どんどん不自由になっていくんですよ。

フリーランス1年目が一番エキサイティングでした。毎日が予測できないことと刺激の連続で、ワクワクしてました。

だけど2年目、3年目と、なんとなくお金を稼ぎ方や世渡り術がわかったところで、先の未来が見えてしまって。本当につまらなくなっていきました。

平成最後の夏とか言われてた時期から、ずっとモヤモヤしてた気がします。

「本当に人の心に残るものってなに?」

「死んでも消費されないものってなに?」

「もしかして文章じゃ限界では?」

そんなことを、暗闇の中ずっと考えてました。

導かれるようにポエトリーリーディングの世界へ

また鬱々としていた中で、どうしてか覚えてないけど、また不可思議/wonderboyを聴き始めた時に、「あ、ポエトリーリーディング良いな」って思いました。

SEOとか、お金を稼ぐための文章だとか、クライアントワークとか、フォロワー増やすためにウケるツイートだとか。そういうのに疲れてたけど疲れてない振りして無理してた時に、あまりにも自由に表現する彼らの音楽と言葉が、27歳になった僕の心にまた沁みたわけです。

なんか本当、涙が溢れるくらいすげぇなって。

4年前に聴いた時は泣くまではなかったのに、なんで今はこんな泣けるんだろうって。たぶん色々、良いも悪いも経験を経たから来るものがあるのでしょう。

以前は気づかなかったけど、その言葉選びのセンスや表現に、言葉を発する人なら嫉妬を抱くレベルだと思います。

それから、「誰かご飯奢ってください」ツイートしたら、ポエトリーリーディングやってる向坂くじらさんに出会いまして、そこで初めて詩を書いてみて、昨日のイベントに誘ってもらいました。

まるで、ブログを始めた瞬間からそうなることが決まってたかのように、ポエトリーリーディングの世界に導かれていきました。

ただ会社員を辞めたいからモテたいからという下心で言葉を発信しはじめ、言葉の魅力に取り憑かれ、そして今は言葉と音楽の融合を目指そうとしてる自分がいる。

本当、人生って何が起こるか全然分からない。

そしてポエトリーリーディングの歴史を調べていた時にこんな言葉を見つけました。

「ポエトリー・リーディング」とは、巨大なシステムに対し、中指を突き立てる行為であると同時に、平和や協調、そして共振や共感を、態度で示す行為であるのだから

「いや、これマジで俺やん」と。

変わろうとしない悪しき風習と文化、それによって完成した日本の劣悪な労働環境に対して「プロ無職」という肩書きと共に中指を立て、鼓舞するメッセージをネットで発信する。

世界でもポエトリーリーディングが活発になる周期があるそうですが、それは「決まってその国の政策がトンチンカンな道を歩み始めたり、外交上の危機や戦争や紛争に直接的にも間接的にも国家が介入し始めたときであり、また、手の施しようがない不況や経済的危機が訪れたとき」だそうです。

そんな社会状況が当たり前のように市民生活の中へと浸透し始めると、必ずと言っていいほど声に出すポエトリームーブメントが活発になり、現に、バブル崩壊後の日本でも、ポエトリーリーディングの大きなリバイバルがあったそうです。

つまり僕は、なぜこのタイミングで自分がポエトリーに導かれているか、それは自分がポエトリーする周期に来てるんだと解釈しました。

昨日のイベントでオーガナイザーの方と話したのですが「日本のポエトリーはこじんまりとした業界です。それを、外部から、良い意味でぶっ壊して欲しい」とおっしゃってました。

ポエトリーという武器を手に入れ、またひとつ上を目指そうと思います。絶対に、「残る言葉」を発して死んでやると誓う…ってレベルでは全然ないんだけど、感じました。

ちなみに、いとうせいこうさんも「自分のラップの限界を感じてラップをやめ、ポエトリーが自分の壁を超えさせてくれた」とおっしゃってました。

大阪にアンダーグラウンドなセッションバンドみたいなのがいたんです。その人たちのインプロをバックに、当時アメリカが中東に攻撃するしないの前夜くらいで、政治声明を1時間くらいに渡ってワーッて読んだ。それをやってたら「ああ! 俺これなら音楽やれる! また音楽と一緒になれる!」って思ったんですよ。ポエトリーが自分の壁を超えさせてくれた……ラップは拍子にも合わせなきゃなんないし、一応韻のことも気にしたりしなくちゃいけない。DUBの場合は、自分のテキストを様々に音楽に合わせて千切りするように、その断片を読む。で、それを何回も何回もリフレインするんですね。ラップってあまりリフレインしちゃいけない文化じゃないですか? ところがDUBはリフレインした方がいい音楽なんだよね。で、それが僕にとってはDUB的なものと音楽と言葉っていうものが初めてちゃんとできたなあって思ったんですよ。

出典:【インタビュー】いとうせいこう「俺がラップでぶつかって悩んだことは自然なことだったんだ」

冒頭で述べたように、「韻を踏まなきゃいけない」というルールを外れたことが打開に繋がったと。

僕も同じように、これまでのルールから外れて、もっと自由に伸び伸びと表現していこうと思います。