インフルエンサーと教養。大衆に迎合することの意味の無意味

確かあれは日曜日。

ご飯に誘われて途中からお邪魔したら、友人の1人がTwitterを見てめちゃくちゃ怒っていました。

なにやら、とある方が特定の職業の人に対して失礼なツイートをしていたらしい。確かに内容を見たらかばいようのないくらい失礼でした…笑

その翌日、別の方が失礼をしてタイムラインが荒れていました。1秒も時間を取られたくなかったのでその時点でTwitter閉じて、前々から考えたことと今回の件を合わせてブログ書いてみます。

フォロワーが増えたつもりで「孤立化」していく発信者たち

こうした炎上騒ぎは今後も繰り返されていくでょうし(むしろネットが一般化し、ヘイトが集まりやすくなったからより頻発していく)、発信者のリテラシーや教養の高さって今以上に求められると考えます。

表現者は見てくれる人がいてなんぼですが、誰に届けたいのか、どこまで意見に耳を傾けるか、そうしたバランス感覚が重要です。

そこを見失うと「フォロワーが増えたつもりが、色んなものを失っていた」なんてことに繋がります。えとみほさんも、そのようなことをおっしゃってました(以下、有料コンテンツです)

「発信の質」を左右するもの

平成の政治家がテレビを活用したポピュリズムによって最初は注目を集めるも、結果として成果を挙げれなかったように。アラブの春や日本の原発問題もそう。

「SNSはポピュリズムの一種に過ぎない」と論じたのは宇野さんの「遅いインターネット」です。そもそもリテラシーが低下している人たちに迎合しても意味を成さないという。

実際、愛され続ける人間力のある発信者と、フォロワーを増やしているようで孤立していく発信者に二極化してるように感じます。

教養(思いやり)とインフルエンサーの相性は良くない

そもそも「教養」とは一体なんでしょうか。抽象的かつ一言で定義できない言葉ですが、その答えのひとつは「思いやり」と解釈できます。先代の偉人たちの言葉を引用します。

「教養とは何かと問われれば、私の答えは『教養とは仁である』。言い換えれば、人に対する思いやり。男性や女性、外国人、異業種の人など、自分と違う相手に対応する能力のことです。相手に対する敬意や思いやりこそが仁であり、教養だと考えています」(『文藝春秋』2017年4月号より)

-數土文夫(前東京電力会長)

「教養はものを識ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである」(『まともな人』(中央公論新社)より)

-養老孟司(解剖学者)

「教養ある人間は、他の人格を尊重し、したがってつねに寛大で柔和で腰が低いものである」

-チェーホフ(ロシアの作家)

出典:「教養」を蔑ろにする日本人…展覧会の誇大広告すら気づけない

しかし「SNSでインフルエンサーになること」と「思いやり」の相性は良くないです。

例えばTwitterの場合、自分の考えていることを140文字という限られた字数で伝える必要があります。140字であらゆる業界や人種を思いやってツイートすることなど、ほぼ不可能です。

むしろSNS上でインフルエンサーになる方法はある程度ハックされています。

最も簡単なのは、文章の中の主語を広げ、語尾を断定し、一方からは嫌われますが、他方からは熱烈に好かれるというごくシンプルな手法です。つまり言葉で刺すこと。

ただ、この手法だともう一方の界隈を思いやることは中々難しいし、敵を作るということは炎上リスクと常に向き合うことになり、ハッキリ言って茨の道です。

そして「全員を思いやる」というスタンスでSNSで発信しても、共感されにくく、誰にも見られないという悲しい矛盾が待ち受けてます。

ファンを疑うことも必要

僕が情報発信する上で最も恐れているのが、あれこれ言ってくるアンチよりも、言うこと成すこと盲信する人たちかもしれません。

称賛の声を真に受け、そうした人に迎合し、喜ばせることに集中していたら、実は自分の船は沈没していた…なんてことが起きてくるのではないでしょうか。先に述べた政治の話がそうであったように。

叱ってくれる人が離れてしまうのは、とても危険なことです。

あえてYouTubeやインスタグラムのコメント欄を閉鎖するってのもアリな選択だし、いちいちファンの意見に答えないのも大事(迎合しない)。

とにかく「発信者も幅広い視野と教養を身につけ、受け手のリテラシーも底上げできると良いね!」と言っても、彼らが方向転換するのは難しい。なぜなら生活するために情報発信をしているから。一度積み上げたブログやSNSを破壊することは難しいという…。

この辺のバランス感覚をどのように養っていきましょうか。