絵はピュアな言語であり、精神的・空間的自由を与えてくれる

最近絵を描きまくってます、るってぃです。はじめたキッカケなどはこちら↓

芸術に1ミリも興味がなかった僕が絵を描き始めたワケ

フォロワーさんからこんな質問をいただきました。

正直言うと、絵を描くにあたってテーマはありません。とりあえず真っ白なキャンバスに自分の好きな色とか筆で思うままに描いていって、「あ、なんかこれ花っぽくなってきたな」と思ったら、途中で花を意識して伝えたいメッセージを考えながら描いていく…というような感じです。絵のタイトルや解釈なども描きながら、もしくは完成した後に生まれることの方が多いです。

色々描いてみて気づきましたが僕の中で芸術とは、これまで自分が積み上げてきた経験やセンスが”内面から湧き出てくるもの”と解釈してます。つまり自然で、ピュアです。

「たくさんの人から褒められたい」とか「この色はみんな好きだからこの色を使おう」みたいな感情と、対極にあるべきだと思ってます。承認欲求を満たすためにSNSで自分を発信してましたが、それはいつか限界が迎えます。他者に迎合するための「好きなことで生きていく」は、本当の意味での「好きなことで生きていく」ではありません。

好きだから描く、描きたいから描く。中原中也が「無意識即」と言いましたが、限りなくそこに近い感じで描きます。他人の目を一切介さない、真の「好きなことで生きていく」です。

「好きなことで生きていく」の本当の意味

アートを通してたどり着きたいもの

絵を描く時は座禅を組んで瞑想するイメージです。無心に近い状態で、意識下に積もった感情やイメージをキャンバスに描き出すイメージ。僕の理想は「気づいたら作品がそこにあった」で、第一次世界大戦後に生まれたオートマティスムのようなものです。

絵を描いてると自浄効果が半端ないんです。心が解放されていくというか、弓道の世界で言う「離れ」や、禅の「三昧」、スポーツの世界で言う「ZONE」と近い状態にある気がします。

例えば弓を習う時、弓を射る人はどうしても的に当てたくなってしまうが、師範は待てと言います。

修行を続けていくと、ある時によい「射」ができる。すると師範がお辞儀をして「今しがた、それが射ました」と言うのです。

あなたではなく、”それ”が射たと。

つまり、自分が的を射たい、自分をすごいと思いたい、自分が何かを身につけたいという意識が外れた時、自分が矢を離すのではなく、矢が離れると。

弓道には「離れ」という言葉があり、自然に離れることでそれができた、ということだそうです。

あとこの記事書いてて思ったけど、やっぱり自分はやるべくしていま絵を描いてるんだなぁと思いました。色んな経験や出会いを経て、絵を描いている。そしてその経験が、また別の知識へと繋がっていくみたいな。

「プロ無職とは何か?」をこのように体系化してるのですが、外側の7つをクリアすれば次の2つに(他者に迎合した好きなことで生きていく、時間的・場所的な自由)。その2つをクリアすれば真ん中の境地(精神的・空間的自由)にたどり着けると考えてるのですが、絵やポエトリーって、その真ん中に近く行為に僕は思えるんですよね。

正直絵とかアートって生きていくためには全く不要な行為ですしね。お金もかかるし。それでも言葉が生まれる太古の昔から存在し、必要とされてきたのは人間が生きていくためにとても大切なことだからだと思います。

ま、そんな感じで絵を通じた僕の精神世界を楽しんでいただければ幸いです。どれだけ僕が自由に近づきたいのか分かるかと思います。8月は渋谷で展示会もする予定なのでぜひ遊びにきてください。