一緒にラジオをやってる「Books&Apps」の安達さんは、いつもビジネスパーソン向けのキレキレの記事書いてバズりまくってるんですが「多様性はメリットではなくコスト」という話がとても考えさせられました。
結局、多様性を認めるかどうかは、崇高な理念ではなく、コストとリターンの兼ね合いで決まる。
ちょっと前に、こんな高須賀さんの記事が投稿された。 個人の幸福は「お金」ではなく「不快なやつは全員ブロック」で実現される。
多様性が本当に良い事ならば、あなたは好きでもない尊敬もできないパートナーと暮らすべきかもしれない。
意見のあわない上司と働くことにも価値がある。
全く信じていない新興宗教の集会に参加すべきかもしれない。
これらの事は全てあなたの人生の見地を広げるのに大きく役立つだろう。
じゃあ幸せに貢献するかというと……
残念ながらたぶんならない。
こう書くとわかると思うのだが、私達が多様性を褒める時、大抵の場合においてそれは
「自分にとって都合のよい多様性」(=私は他の人とちがうけど、認めてよ。でも不愉快な人は近寄らないで)
の事だけを指す場合が多い。
これだけ「多様性を受け入れよう!」と言われてる中で、あのGoogleですら多様な社員をコントロールできてないし、移民を受け入れたヨーロッパ各国は疲弊している。アメリカだってそうです。
戦後日本は多様性を排除し、個性を統一することで高度経済成長の波に乗り発展したと言えます。豊かになったいま、多様性を広げようとする中、ヨーロッパやアメリカはグローバリズムと逆境して閉じようとしています。多様性はコミュニケーションや維持、保険料にコストがかかりすぎるのです。
そもそも「多様性を受け入れないことも多様性」と捉えるのならば、こうした排除する動きも受け入れなければいけないのでしょうか?
多様性を許容していくと、究極は「殺人もOK」ということになり得る。それを描いたのが昨年大ヒットした映画「ジョーカー」でした。善悪や多様性は主観でしかないと。
「数字で測れない倫理と美意識が重要になる」と論じたのは前回の記事でした。
積み上げを余儀なくされる世界
そもそも、西洋の合理的思想の中で多様性の話をしている限り、「コスト」や「リターン」といった言葉から抜けることができないのではないかと。
資本主義の視点だと、合理的に儲けを追求すれば良くて、正しさや倫理など区別がないのです。
先日ブログで紹介した、ドイツから一時帰国中のwasabiさんが「ヨーロッパにはそれで生きづらそうな人がたくさんいる」と言ってました。
常に上へ上へ…不安定な経済状況の中で休むことなく「積み重ね」を余儀なくされる。
その上、人種もバラバラなためコミュニケーションに時間やコストがかかる場合もある。
ヨーロッパにはヨーロッパの、西洋的な歴史や考えが、生きづらさを生んでるのかもしれません。
「混沌」は、何にも分かれていない、無分別の状態のこと
話が一転して今日、久しい友人に会うために鎌倉に行ってきました。
行った場所が円覚寺で、ここは僕がいま興味深く研究してる仏教学者鈴木大拙が若きころ修行していたお寺であります。
大拙の言葉で好きな考え方があります。
「混沌」は、何にも分かれていない、無分別の状態のことだ。
いちいち名前をつけてカテゴリー分けするから、個性や多様性という考え方が生まれる。
そうではなくて、すべてがひとつの無分別の世界。それが本当の混沌(カオス)だと。
自分は、本当の多様性ってこれに近いのではと思ってます。
大拙の言葉はこう続きます。
「人間は何かから自由になるのでない。既に自由なのですよ。人間は無分別を忘れようと思っている。あるいは忘れている。無分別を取り戻すためには坐禅をしなさい。もし、神が自分の中に存在していなければ、なぜ『あれ』が神だと分る?それが分っているから神を必要としているのではないか」
西洋の歴史は侵略の歴史。構造を認めた上で、破壊して再構築する。
だから、フリーダム(freedom)やリバティ(liverty)には本来自由の儀はなく、束縛や抑圧からの解放を意味します。根本的に考え方が違います。
言葉を過信しない 自分の認識を信用しない
先に述べた多様性とか、資本主義の外から考えることができれば…東洋思想と西洋思想を織り交ぜたまた新しい何かとして考えることができればいいのではないか…。そもそもそうやっていちいちラベリングすること自体が間違いではないか。
言葉は好き、でも過信しない。
自分の感性を信じるけど、信じない。
どうしても矛盾するカタチになってしまうけど、最近考えてるのはこんな変なことなんです。
多様性という正しい答えなどないワードを、いかように捉えるましょうか。