言葉に急速に興味を失いつつある理由

インターネットで言葉を発信する活動をはじめて3年半

そんな僕ですがここ最近急速に言葉に興味を失ってます。

言葉にしたいことが一周回ってなくて、Twitter廃人がこんなことを言う始末。

言葉で伝えるよりも、言葉を使わないでコミュニケーションしたいという気持ちが大きくなってきました。

ポエトリーリーディングに関しても、日本語を使うなら日本語が理解できない海外の人に向けてやりたいと思えてきました。

海外であえて日本語でポエトリーリーディングして学んだ大切なこと

伝わらないからこそ、本当に伝えたいと思う大切なこと。

言葉じゃ表現できない感情、そういうのを発信したいな〜と感じるここ最近です。

言葉すら誰かに作られたものであり、信用しない

詩人の谷川俊太郎さんがとても面白いことをおっしゃってました。

「自分の中に言葉があるって、ある時期から思わなくなった。言葉を信用していない。詩を書くときは、意識下にある言葉、つまり言葉になりかかってる言葉(混沌)を探し出す」

宮沢賢治は「無意識即でないと言葉は信用できない」、中原中也は「名辞以前」と言いましたが、もはや僕らが当たり前のように使ってるこの言葉すらも誰かが作ったものであり、与えられたもの(借りもの)ですよね。

そんな当たり前のことにようやく身体を持って気づけた気がします。

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“本当の自分”をピュアに表現できるのか

例えば、昔の自分のブログやツイートを見ると、その安い言葉に吐き気がしてきます。

フェイクに心底疲れてしまって…だからSNS見るのやめました。

今は抽象画ばかり描いてるのですが、これに何の意味があるのでしょうか。それは描いてる今でさえよくわかっていません。

今まで言葉だけでやってきたので、全てのSNS通してフォロワーさん減ってます。「なんで絵なんか上げてるの?」「そんなん求めてねーよ、(分かりやすい)言葉をくれよ」みたいな。でも、今はそれでいいやって。

僕は常に自由でありたいなぁ。

具体と抽象、2つの世界を上手く行き来しながら、本当の自分をピュアに表現できれば…と思います!

世の中の「分かりやすさ」を求める風潮への違和感